COLLAGE◆SUPER NIL
家族の宋来像
男に求められるのは、「母性への甘尺」卒業と「男らしさ病」の克服

 話題となった17歳の犯罪をはじめ、さまさま事件や家庭内・夫婦間の問題から家族を考えてきたシリースを、ここで一度まとめてみよう。 現代の家族の実状や問題を直視したうえで、.斎藤氏は明確かつ斬新な語リ口のまま「家族の未来像」を示してくれる。「変わらなくつちや」「変われるつてすごい」某自動車メーカーのテレビCMで耳にしたフレーズが、心にふっとよぎる=家族制度もまた、その選択地点に立っているのだ一。
これまで社会的に注目された多くの事件を取り上げ、その背景にある家族の問題を斎藤氏に分析してもらってきた。「夫婦と、その血をわけた子供によって構威されている従来の家族が制度疲労を起こし、それが少年事件をはじめとするさまざまな事件として噴出している」というのが斎藤氏の見方だ。その制度疲労の一方で、シングルマザーの増加が象徴するように、新しい家族像も模索されつつあるようだ。いま新生児のうちシングルマザーの割合は日本ではまだ1%ほどだが、保守的なイギリスでさえ約30%、フランスだと約40%、スウェーデンではなんと60%近い。フランスは家族法を改正し、レズやゲイのカップルも家族と認めるようにしたほどだ。今回は斎藤氏とともに家族の未来像を探ってゆくことにする。
家族の根本には、"父・母"の役名も性による分業もない
--先生が考える新しい家族のあり方とはどういうものでしょうか。
斎藤男は仕事、女は育児という性差別というか性役割分業を続けていると、男も女も不幸になリますよ、と私はいつも言っているんです。これからはワーキングウーマン、ワーキングマザーの存在がもっと普通になるでしょうし、そうならなくちゃいけない。その時、父とは何なのか?と考えると、決して精液を提供した男という意味じゃないと思いますよ。子供を産んだ女に奉仕する男のこと、というのが私が提唱する新しい家族論のキーなんです。24時間365日、言葉も論理も通じない子供と一緒にいると母親はストレスが溜まって、予供を虐待しちゃう。そうならないためには、母親も働き、子供は保育園や託児所に預け、夕方迎えに行くようにする。自分が仕事の後に遊びたい日は、代わりにボーイフレンドが子供を迎えに行き、母親が帰るまで子供の相手をする。そうなれば、女もどんどん出産するようになりますよ。極端に言えば、その女性に子供が3人いたら種を仕込んだ男が全員違っていてもいいし、その3人の誰にも種を仕込んでいない男が父親をやってもいい。
--しかし、それでは子供が混乱するのでは?(笑)
斎藤家族の役割は何かと言えば、根本は教育です。排泄から言語に至るまでのね。人間が大人になるまでに15年ぐらいかかり、そこまでは父親が入れ替わると子供は混乱するから、同じ男のほうがいいでしよう。でも子供が15銭になつたら、今後も家族を続けるかどうか、みんなでよく相談すれぼいいんですよ。で、どちらかの親が「私はこのへんでお暇を取らせていただきます」と家族を難れてもいい(笑)。さらに言うと、レズやゲイのカップル、あるいはそういう人たちのコミュニティーが子供を育てることだって考えられる。レズだったら片方が母親役をやり、片方が父親役をやればいいし、男にも女性性や母性愛があるんだから、男だけで子育てをしてもいいんです。
--とすると、家族というものがなくなるのではなく、成り立ちや形態が変わるということですね。
斎藤間違えてはいけないのは、人類が家族を作ったのではなく、数ある霊長類のなかである一種族だけが家族を作ったから、それが人類へと進化したということです。人類ほど難産の種はないし、赤ん坊があれほど弱い種はない。それをひとりの大人……母親だけでは育てきれない。そこでもうひとりの大人、つまり父親が必要となった。こうして家族的結合が生まれ、それがあったからこそ生き延びることができたんです。人類の誕生と家族の成立はこのように分かちがたいので、家族そのものがなくなることはないですよ。
 両性平等を信じ、母性への癒着を断つことで家族は変わる
--先生が言う新しい家族像が成立するためには男も女も人間として成熟している必要があると思いますが、日本の場合、現実の男と女はそうなっていません。
斎藤まず女性について言えぱ、日本の女はどうしてこんなに愚かなんだろうと思いますよ。まず母親が両性平等を信じていない。その母親に育てられた娘はたいてい母親をパカにする。で、母親世代は娘世代の欠点をあげつらう。女性自身が、男性による女性の分新支配を許す土壌を作っているんです。で、同性と競争して相手を蹴落とし、男の愛をもらうという卑屈な態度を身につける。男のことをオヤジだと言っている割にはオヤジに取り入って、自分を愛人にしてもらおうとしているのは他ならぬ女性自身じゃないですか。しかも、男らしさの中でも一番質が悪いと思われる権力に取り入ろうとするわけでしょう。それがいまだに続いてるんですね。これを変えないといけないですよ。
--女性自身が両性平等を信じていないことが、摂食障害者や、バタードウーマンに甘んじる女性を生んでいるというわけですね。
斎藤夫に殴られて裸足で逃げてきた女性がいたら、安全に暮らせる場所を提供する。子連れだったら、子供の世話もしてあげる。同じ女性がそういうケアをすることから女性同士の連帯が始まると思うんです。しかし、そうしたシェルター(避難機関)は日本全国でもたった20か所ぐらいしかない。しかも一般の人には存在すら知られていない。今この瞬間にも男に殴られている人はいくらでもいるんです。まず女性自身がそういうことに感受性を持ち、男性が作っているシステムのどこが問題なのかを見抜かないとダメだと思います。新しい家族の話はそういうところからしか始まりませんよ。
--一方、男はどうすべきなんでしょうか。
斎藤男性の場合は「男らしさ」の病にかかっているわけです。競争祉会を勝ち抜かなけれぱいけない、という病ですね。今の日本はほとんど学歴によって細かく階層化されていますから、その階層を少しでも上がるために親は子供、特に男の子にいい学校に入るよう要求する。で、そうやってエリートを目指して挫折したおとなしい少年たちがいろいろな事件を起こしているわけです。
--もうひとつ、この連載で先生が再々言っているのは母親との過剰な密着やパートナーの女性を母親として見ることの問題ですが。
斎藤男はある時から相手に甘え、女から母親に棚上げしちゃう。そこからドメスティック・バイオレンスなどいろいろな問題が起こってくるわけてすが、相手を母親として見るというのは社会に対しても同じでしょう。若い時には挑発的になったり、逆に開じこもったりして社会と敵対関係を築いたりしますけれど、じきに社会と寝ちゃう。で、自分の操を捧げ、多くの場合は去勢され、忠実な奴隷になってしまう。社会のほうはそうした従順な男に対して母親になるんです。会社も同じですよ。多少わがままをやっても、相手は母親だから許してもらえる。ただし、基本的なところでは背いていない必要があるんですね。町内のやんちゃ坊主。そのくらいが喜ばれるんですね。しかし、自己責任といった概念が浸透するようになると、以前よりは、掟に背いたら罰するという父性的な論理が強まるでしょうから、母親に甘えるような関係は通用しなくなるでしょうね。個人個人に即して言えば、自分は本当に自分の欲望に沿って生きているのかどうかを問い直してみるべきだと言いたいですね。で、思春一期の少年が母親に対して挑戦的になるように、社会に対してもう少し距離を置いたらどうですか。それをしないと、簡単に社会と寝てしまい、自分で白分の人生の設計者になれなくなってしまう。個性的に社会と対峙するための単一のノウハウなんてあリませんけれど、単一の欲望はあリます。なぜなら、欲望は個別的なものですから。今自分は何に欲求不満を持ち、何を求めているのか。何かをしたいと思った時、それはメディアが流す情報を無自覚、無批判に受け入れているだけなのか、それとも本当に自分の欲望なのか。それを追求してほしいですね。
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