COLLAGE◆SUPER NIL
我が子の誕生は、"夫"から"父親"への矢印にはならない
 仕事一筋、給料運ぴ……すぺて家族のためなのに、なぜジャマにされなきゃならん--そんな世のお父さんたちの嘆きもわかる。しがし、昔と違つて銀行振リ込みが一般化した今、その苦労は間接的で見えにい。だからこそ家族は、目に見える行動を待っている。「お父さんは、家族のために何かをしてくれるの?」記憶に新しいパスジャック事件においても、犯人の少年の父親はすぐに現場に駆けつけたものの、立てこもる我が子を前に結局何もできずに終わつたという。"いつも"でなくていい、家族の誰かが一大事のとき"に本気で動けるか、それが父親の役目なのではないだろうか。
神戸の児童連続殺傷事件に限らず、斎藤氏は「父性の欠如」をいまの家族の現状を理解するキーワードに据え、最近社会的関心を呼んでいる事件の多くに「父性の欠如」を見て取っている。父親はいても父性の役割を果たしていないことが多い、と言うのだ。
ゴリラの父親に見習つべき姿「自ら家族に関われ」
--そもそも家族の中で父性の役割とはどういうものでしょうか。
斎藤母親と子供の関係は切っても切れない。瞼の母と言いますけれど、類人猿でも何年も会わなくても、これが母親だと子供は見分けるという話ですから。ところが、父性は母性と比べて曖昧なもので、つねにこれが父親だよと子供に刷リ込み、族長として家族で奉っていないと父親じゃなくなっちゃうんです。その代わリ、父親は子供を保育するという原則があったんです、そもそもは。霊長類学者たちの研究によれば、人間の生殖のルールはチンパンジーよりもむしろゴリラに近い。そのゴリラの場合、母親が子供を産んで授乳期が終わると、幼児を保育するのは父親なんです。どうやら人類が誕生する過程でもこの原則は保持された。ところが、近代になるにつれて性別による役割分業がはっきりしてきて、父親が子供の保育をしなくなっちゃった。本来、そんな父親は不要だから、すぐに家族の中で不在化してしまうんです。
--彼の場合、すでに中学生の頃から自室にこもりがちだったといいますから、20年の長きに渡り自己愛を肥大化し続けてきたわけですね。
斎藤もともと母親と子供の間では言葉がいらないんです。お腹空いた? うーん……とかって唸るだけですんじゃう。そこに父親という存在が介在することでかろうじて言語能力が保たれる。しかし、その父親が追い出されてしまったから、コミュニケーション能力がどんどん貧弱になっていく。彼の場合、近所との付き合いもなかったわけでしょう。地域というのは家族と並んで子供の人間関係能力を磨いていく場所だけど、それも欠けている。 一般的に言っても、今の子供は学校の中だけでコミュニケーションの練習をしようとするでしょう。でも、学校では同学年、同年齢との付き合いしかないから、多面的 な関係が築けない。障害児でもいれば、その子をみんなで支えようというように弱者を保護する精神が発達するのに、障害児はふつうの学校から排除されてしまっていることが多い。で、弱い者はいじめて支配して優越感を持つという、男のいちばん悪い面だけが出てしまう。この頃は女の子もそれを真似して、力による支配が行われてい るようですけれどね。
--家族を経済的に食わせればそれで十分だ、なんて思っていてはダメなわけですね。
斎藤霊長類には上位の者が劣位の者に食物を分配する分配行動というのが見られるんですが、ゴリラの父親ではこれが特に発達しているんです。たとえば、父親がレタスの葉っばを食べているとき、子供もレタスが食べたくて、葉っぱとお父さんをじっと見る。すると、お父さんはその場をどいて子供にレタスを譲る。要するに食を介しての愛ですね。現代の父親はこれを給料を稼ぐという形でやっているわけですけど、間接的で見えにくい。それと、共に食うというのが家族が成立する条件のひとつなんですが、これも現代の父親にとっては難しい。だとしたら、せめて子供が関心を持っていることに父親も目を向けないといけない。それもしないと、この人は私に関心がないんだと子供は思ってしまう。そういう父親があとで子供にしっぺ返しをされるんです。いまの父親は制度に甘えています。戸籍法に縛られて離婚しにくいから、家族から離れていてもいつまでも父親のつもりでいて威張っている。戸籍法の上に胡座をかいているのが多いんです。
隣組に代わる、新・地域コミュニティーへの期待
--前回、掟を教え、掟に背いたら懲罰を加えるのも父性の役割だとおっしゃっていましたが。
斎藤エンプティネスト・シンドローム(空の巣症候群)という言葉があるんです。アメリカ人が作った言葉だから日本の母親だけじゃないんですけれど……子供が恋人を作って、結婚して、子供を産んでといった具合にカレンダー年齢に即した成長をして母親を見向きもしなくなり、一方、夫が呆けたり、死んでしまったりすると、エンプティネス(空虚感)に取りつかれる。 ところが、子供が新潟の彼のようだと、呆けてなんかいられない。彼のお母さんも彼のために寿司を買いに行ったり、73歳になるまで保険の外交員を続けていたり、彼を何とかしようと病院や保健所に相談に行ったりしていたわけでしょう。子供がいつ跳び蹴りをしてくるかわからないから、いつも身構えて宮本武蔵状態にいなくちゃならない(笑)。つまりバカ息子、バカ娘がいると母親は呆けられない。そういう効用があるというか、母さん孝行なんです、バカ息子、バカ娘は(笑)。本来、母親という存在は子供にとって支配的なもので、子供に対して絶対的な自信を持っている。子供が暴力的になって、一見子供に屈服しているように見えても、この子は私がいなければ生きていけない、私がいるからこそ生きているんだという自信がある。子供に対していつまでも授乳感覚を持ち続け、支配し続けようとする。だから、あそこまで頑張れちゃうんですよ。
--とすると、新潟の彼と母親との支配、被支配の関係は非常に倒錯的ですね。「オレの部屋に絶対に入るな」と厳命し、奴隷のようにこき使うという形で彼が母親を支配する一方、母親は「私がいないとこの子は生きていけない」という形で彼を支配していた。
斎藤人倫の基本と言われるもののなかには、必ずしも法として書かれていないものもあるわけです。たとえば日本の刑法には近親姦に関する処罰規定はない。しかし、やっていいということではなく、そういう人倫の基本は家族の中で父親が直接、あるいは母親を介して「そんなことをするとお父さんが怒るよ」と子供に言って植えつけていく。ところが、いまの日本の父親はそれも放棄して、国家や学校に委ねてしまっている。バスジャック事件の場合だって、父親が息子にあんなに従属的になっちゃダメですよ。せがまれてドライブに出かけ、行き先をかなえてやらないと怒られていたなんてダメです。息子が家の中でナイフを振り回し、母親に暴力を振るっていたなら、父親は殺される覚悟でそれに立ち向かうべきだったんです。かりにそこで刺されたとすれば、バスジャックは起こらなかった。そこで警察は動きますから。それと、ただ学校に行けと言うのではなく、行かないことの責任は自分で取れ、行かなくても毎目を楽しく過ごせとか気の利いたことを言って、ちゃんと息子の様子を見ていてあげないといけない。
--でも、息子に刃物を持たれたら、父親も怖いと思うんです。
斎藤ならば、女房と逃げちゃえばいいんです。子供にはこれがいちばんの懲罰になる。で、近隣の人に援助を頼む。そうすればコミュニティーケアが成立するんです。他人にはいい子だったんだから、近所の人が「坊や、ひとりになつちゃったけど、どうしたの」とかって声をかける。で、近所の人が「あのまま放っておくと危ない」と警察に相談する。そうすれば警察だって動きますよ。精神科に連れていくことよりそっちが先だし、家の中だけで何とかしようとするからいけない。ただ、昔ながらの共同体はとっくに崩壊しちゃった。互いに密告し合うような戦争中の隣組に嫌気が差して、他人の家のことにはお節介しないほうがいいとなりましたから。で、隣の家から怒鳴り声や悲鳴がしても「どうしたの、あんたたち」と聞いてくる人がいなくなった。そのうち誰かが大怪我したり、死んだりするわけです。いまは地域に一家族ぐらいは子供が暴れている家があるでしょう。だつたら「あんたたち、どうしたの」をお互いにやる。そうやって、暴れている子の沈静化を通してコミュニティーを作っていけばいいんです。それが社会的父性の役割を果たすんです。もうひとつ言えば、女性が子供を抱きながら何かをするのは大変でしょう。それでもうひとり大人が必要になる。そこで登場するのが父親なんですよ。だから、そもそも保育しない父親なんて話にならない。これは個人レベルにとどまらず、たとえばシングルマザーを手助けする制度を政府や自治体が作れぼ、それも社会的父性になるわけです。具体的に言えぼ託児所とか保育所ですけれど、それが貧弱な目本は社会的父性にも欠けているわけですよ。保育するという意味での父性、掟を教え、懲罰するという意味での父性、そして社会的父性。いまの日本はさまざまな父性に欠けていますね。
両親それぞれへの愛情も恨みも抑圧され、少年たちは…
--ところで、京都の小学生殺害事件の場合も、犯人は中学一年で父親が不在となり、母親と2人暮らしの家にひきこもっていました。
斎藤彼の家にも掟を教え、そむいたら懲罰を加えるという意味の父性が欠けていたわけです。で、てるくはのるの名前で犯行声明文まで書いて父のメタファー(隠喩)である警察に挑んだ。そこには、自分を捕まえて懲罰してほしいという無意識の願望があるわけです。 --愛知の私立高校生による主婦殺害事件の場合、彼が一歳半のとき母親が離婚して家を出て、父親と祖父母に育てられましたが。 斎藤 あの場合、祖父が非常に族長支配的で、自分の家は他の家と違うんだという意識が強いらしいんですね。族長支配によって父が父でいられない。そういう父性の不在です。だから父親も再婚できなかった。「母親に会いたいなら会ってもいい」と祖父に言われ、少年が「会いたくない」と答えたと報道されたけれど、本心のはずがないでしょう。だけど、本心を言っちゃいけないくらい少年もスピリチュアルに圧殺されていた。そうした感情の抑圧から殺意が生まれ、それは本当は祖父に向けられるべきものだったけれど、それは恐ろしくてできない。で、殺意を年老いた主婦に向け、そのことで祖父が守ろうとしてきたものを失墜さセたんです。また、事件は母親へのメッセージですよ。愛と、自分を捨てたことへの怨みのメッセージてす。あんな有効な方法はないですよ、母親に会うためのね。祖父に封殺されていた母親への愛と怨みを、ああいう形で噴出させたんです。
               

 斎藤氏によれば、父性の確立は、類人猿から進化して人問が人間らしくなったこと、そして家族が成立したことと密接不可分の関係にあるという。だとすれば、さまざまな父性の不在は極めて反自然ということだろう。-以下次号-
ニッポン診断「家族の社会論」トップに戻る
inserted by FC2 system