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あんぐら音楽祭タイトル

「あんぐら音楽祭」が、東京と大阪で華やかに開かれる。
「あんぐら」という日本的な流行語が飛び出して何年ぐらいになるのか、よくわからない。
とにかく、
今度のように、スケールの大きい「あんぐら音楽祭」が実現したというのは、
いまだかってない。結構なことである。
ぼくは、「あんぐら音楽祭」の支持者の一人であると、すくなくとも自認している。
だが、正直のところ、今度の「あんぐら音楽祭」のように東京、大阪で
12日間の連続コンサートと派手にやられると、ちょっとばかり戸惑ってしまう。
なんとも、晴れがましのである。
厚生年金大ホールや、フェスティバル・ホールの立派なステージで、
立派な照明の中で、アングラ・グループの音楽を聞くというのは、考えるだけでも、落着かない。
それというのも、音楽、演劇にかぎらず、およそアングラと呼ばれる芸術は、
うす汚れた地下室か、野外ステージで公開するものが、ふさわしいと信じ込んでいるからかも知れない。
そんなわけだから、今度の「あんぐら音楽祭」のスケールの大きさを
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、とまどっている。
「あんぐら音楽祭」は、高石友也、フォークルの出演によって、
既成の音楽界、とくに長い間惰眠をむさぼりつづけてきたレコード界に、
大きなショックを与えた。結構なことである。
ところが、世の中のねじれた連中は、ヒット・レコードが生まれたり、
センセイショナルに書き立てられたりすると、商業主義と妥協した、堕落したなどと騒ぎたて、
蔑視しようとする。これはおかしい。
アングラだからといって、ヒットしてはいけない。という理屈はない。
ジャーナリスティックに取上げられてはいけない。
ということもない。
あんぐらの音楽家たちは、自分の書きたい歌をつくり、歌いたいように歌う。
そして一人でも多くの人に理解されて欲しいと願っているに相違ない。
しかし、頭の堅い既成の組織が、発表の場を与えないとすれば、
必然的に地下にもぐって、歌うほかはない。乱暴な表現かも知れない。
もし、自分だけ満足すればいい、という音楽家がいたとすれば、
それは"あんぐら"と呼ぶに値しない。
脱線したが、高石友也やフォークルがあんぐら・ソングの旗をあげたのは、いいことだ。
だが、彼らにつづく人たちが、ぼくの予想したほど活躍をしないのは、なんとしても残念である。
ジャックスがいる、五つの赤い風船がいる遠藤賢司もいるじゃないか、
こう反問されるかも知れない。彼らの作品のあうものは、たしかにすぐれている。
しかし、欲の深いぼくは、この程度では、とっても満足できない。
彼らの作品の良さはもっともっと沢山の人によって認識されるべきだと思う。
タイガースやテンプターズが、ジャックスの「空っぽの世界」を歌い、レコードに吹き込み、
森進一が、岡林信康の「山谷ブルース」を歌う。たとえが俗っぽすぎるかも知れないが、
せめて、このくらいまでにはなって欲しい。
純粋なあんぐら・ファンは、こうしたことを堕落とさげすむかも知れない。
しかし、あんぐらにせよ、なんにせよ、若い人たちが考え、作った歌は、おなじ世代の多くの人々によって
理解されるべきだと思う。そのために、あんぐらという看板がじゃまだったら、使わなくったっていい。
日本の新しい音楽創造への出発点となることを希望してやまない。[あんぐら音楽祭パンフより]

(音楽評論家・福田一郎)


あんぐらシルクポスター あんぐらシルクポスター
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